■総合雑記
┗【生死】もくじ★
生まれ変わりたい?/輪廻転生があるか否かは別として、自分が死んだらもう一回別の人間に生まれ変わってまた人生送りたいと思いますか。
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いきなり明日死んだらどうする?★
意義あり!明らかに矛盾しています!★
昨日のお返事/←↑二つセット。タイトルとはうらはらにマジ話です。他のテキストはどーでもいいけどこれは是非読んでいただきたい。
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自殺者数過去最悪/自殺って悪いことですかね。
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死ぬまでにしたい3つのこと/しなくちゃいけないことがある。
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死の実感/最初は誰もが実感わかず、生活していくなかで少しずつ受け入れていくんだろうな。
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受け継がれていくもの/個人的な悲痛な感情は抜きにして、人が死ぬというのはその人の知識や経験が全て無に帰すということで、単純にもったいないと思う。
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死にたくなったらその前に2週間生きてみろ/死ぬのはいつだって死ねる。
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飼育と命/命の喪失が怖くて動物飼えないです。でも飼いたいんです。
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「存在」から話がどんどん膨らんだ/人でも何でもいい。「何か」が存在することの意味を考える。
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本能には逆らえないってんですか。/窮地に追いやられると理屈で正しさを説かれても、それを拒否するのは理屈じゃないからお話にならない。
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涙ってそんなに美しいものなのか/悲しんでもらえて何が幸せなもんか。僕は周りの人が幸せであってほしい。

職場の人が、自分が死んじゃっても誰も泣いてくれなかったら寂しい、とかぬかしやがるもんだから、ついうっかり素で返事しちゃいました。
ネットでは普通の人とはずれていようが自分の思うことをストレートに書いても、リアル生活では「普通の人」を装うのが僕の生き方なんだが、口が滑った。
ここはひとつ、「ダヨネー」っていう方向で返事をするのが得策だったんだが油断しちゃいました。
いやね、僕はイヤなんですよ。
自分が死んで誰かが泣くなんて。
というか、自分が死んでるのに「寂しい」って意味わかんない。
死んだらそれまでだろう。
例え魂だとかあの世なんてものがあったとしてもね。
寂しいもクソもあったもんじゃない。
そもそも自分が寂しいという理由で他者に悲しんで欲しいってのがもうなんかアレな感じしない?
願わくば俺は人知れずくたばって、生きてる皆には俺のことなんぞ知る由もなくどこか知らないとこで笑ってて欲しいんですがキレイごとに聞こえますかこれ。
今、俺が死にたくないと思う理由はただひとつですね。
俺が死んだら悲しむ人間がまだいる。
そーいう人らがまだいるうちは俺は今死ぬわけにはいかない。
そう思うと、俺は将来、自分が家族をもつことを微妙にためらったりする。
まあね、そんなこと言ってたら全てが成り立たないことはわかってんだけど。こーいうのをどこまでも追求していったら、「じゃあ生まれてこなければ?」っていう結論に至っちゃうから、仮に俺が考えてることが正しかったとしても、人はこーいうことを考えながら生きちゃいけないんだろう。
どうしようもないことには目を背けることも必要で、自分が生きるために必要なことを考えることが周りの人へ対する貢献にもなるんだろうさ。
やがて誰にでも訪れる死に向かって、どれほどその中身を充実させるか、幸せだったと思えるか、ということが大切で、そういう意味では家庭を築いたりすることも大切なことなんだろうな。
でもなんかこう、理屈じゃないものってあるだろう。
それが本当に正しいことなのかなんてことは誰にもわからない。
少なくとも俺たち人間の視点を持つ者たちにはね。
今そこにある理念が絶対的なものだなんて誰が言える?
まあ、人間に絶対なんてものはありえないこともわかってんだけど。
なんか自分で問題提起しては即座に自己否定してるけど、これは俺が出来る限り客観視してあらゆる方面からちゃんと物事を考えてますよ、ってことをわかって欲しいんだ。
もう、ガーってなっちゃって、ふさぎこんで周りのことが見えなくなっちゃって激しい思い込みから全てを否定してるんじゃない。
俺がここで展開してるのは、
「Aという問題に対しては普通に考えればBだけど、必ずしもBとは限らないだろう?そして俺が考えてるCという考え方も、正しくはないかもしれないけど、間違ってるとは誰にも言えないはずだ」
ってこと。
ああ、死ぬならひっそりと死にたいもんだね。
葬式とかもいらないです。
そして生き残った人たちは楽しそうに笑っててください。
それが俺に対して何よりの供養になるだろうよ。
まあな、言いたいことはわかるんだが、やっぱり違うんだよ。
そして俺が間違ってるのもわかってるんだよ。
例えば水難事故に遭えば、わけもなく水が怖くなるだろ。
フツーに考えて洗面器一杯の水で溺れるわけないけど、たったそれだけの水が怖くなったりするだろ。
これはもう理屈じゃないんだな。
どっちが正しいか間違ってるかを追求したら、理屈的に考えて水恐怖症患者の方に改善の余地がある。考え方一つの違いや姿勢でどうにでもなる問題かもしれない。
でも口で言うのは簡単でも行うのは難しだ。
それに俺には、水難事故の恐怖を忘れちゃいけない最大の理由があるんだ(水難は例えばの話で、俺が水難に遭ったわけじゃないけどね)。
そして洗面器一杯の水に怯える心境なんて、どんな言葉で表現したところで感覚的理解にまでは絶対及ばないから、別に俺は誰かにわかってもらおうとも思わないし、俺の言うことに対して意見を掲げられたところで、それに対して言いたいことがあっても言う気にもなれない。
反論すらしないことが、きっと他の人間には逃げだとか、図星を突かれたんだろうだとか、そういう風に映るかもしれないけどね。
それは断じて違うけど、放っておいてもらえるならそう思われてもいいです。
俺自身、まともな頃は、今の俺みたいなこと言ってる人間て理解不能だったから、なおさら、まともな人に話すだけ無駄だってことがわかるんだよね、皮肉にも。
当時は俺も、こーいうこと言う人間を、ただひたすら前向きにさせてやりたくて色んなことを言ってみたりしたもんだ。
でも今は、それが残酷なことだったんだってことがわかる。
いや、別に皆さんが残酷だとか言うわけじゃないんだ。
魚介類が飢えているナメクジに塩水を与えるというのは、魚介類にとっては親切でしかないからね。
そいつが弱いものにしてやれる精一杯の行動であることに違いない。
例えば以前俺が働いていた職場の人間とか、学校卒業以来会わなくなった人間、果ては小学校低学年ぐらいによその学校へ転校していった子とか、俺の目の前からいなくなっていった人たちも今も尚それぞれの人生を歩んでいる。
人間の人生に関わらず俺が関わってきた思い出の場所も、俺がいなくなってからもずっと時を刻み続けてるわけだ。
昔働いてたバイト先とかね。
スタッフもどんどん入れ替わり、今では全く知らないひとたちが働いてるんだろうけど、今、僕がこうして文章を打っている間もその職場は彼らの手によって稼動し続けている。
だけどその場所や、会わなくなった人たちがどんな時間を刻んでいるのかは僕は知る由もなく、僕が彼らの前から、またはその場所からいなくなっても物語は続いていることは確かなことだ。
まあ・・・中には俺が知らないうちにそのはかない人生を締めくくってしまった人もいるかもしれないけど。
そう思うと世界ってのは断じてたった一つだなんて考えは間違ってるな、とか思う。
人口の数だけ世界がある。
例え同じ場所にいても俺から見たキミとキミから見た俺とは全く違うし、世界は60億人分の世界で構成されてるんだ。
気が遠くなる。
そしてそう考えると、人間1人分の人生っていうのはひとつの世界だっていうことだし、その重みもより強く感じられたりするんだけど、逆にたった一つの世界が失われてもまだ世界レベル規模の人生が60億も存在する、っていう考えもあったりして、重いのか軽いのかよくわからなくなったり。
しかもこの無数の世界も地球上に限っての話だ。
意識を宇宙に飛ばすと、地球上での出来事なんて鼻クソ以下のものだし、これは悲観でも楽観でもなく事実だ。
問題は何を基準に物を考えるかだ。
人は時として文字通りの意味で世界を基準にしたりまたは自分の世界を基準に置いて何かを考えなくちゃいけない。だけどそれによって矛盾も限りなく生まれる。
命は軽くない。
だけど宇宙規模で考えると人間がわざわざこの世に生まれてくる意味とかホント謎だ。
俺たち人間レベルの意識で考えるとそれはそれは重い意味があるんだけどね。
生命は自分の子孫を残すために生きるとか、人を愛するために生まれたとか、人生に限りがあるのは、一生懸命に生きるためで、永遠の命があったら堕落してしまうとか、決して間違いではない答えを導きだすのは難しくないけど、やっぱりこれは我々人間にとっての都合でしかない。
この宇宙の片隅に人間が生まれた理由、そんなものは考えちゃいけないのかもしれないけど、仮に人類が滅亡したところで、宇宙は何も変わらない。
昔のバイト先から僕がいなくなったのと同じようにね。
それとも数億年後、人類は宇宙全体を支配、いや、コントロールできるようになるんだろうか。
43億年前から、そうなることを誰かが見越して人類を誕生させた、というのなら少しは話がわかるかな。逆に恐ろしくもあるけど。そうなったら責任の重さだけでつぶれちまいそうだ。
まあ、まさか何億年経ってもさすがにそれは無さそうだけどね。
だったら俺たちって存在する意味あんのかな。
別に価値が無いから死にたいとか言うわけじゃないんだ。
価値が無くて当たり前。
それが人生ってものでその中でも何が何だかわからないまま努力したり苦しんだり必死になったりして生きるものなのに、皆は何かしら価値を見出さないといられないでいるような気がする。
俺も例外じゃないけどね。
生きがいとかってやっぱ必要だ。
ほら。ここで矛盾が生まれるんだよ。
人間って不幸だ。
自我なんてものが無ければこんなことを考えなくても「生きる」っていう単純な目的のために必死になれただろうに。ただ課せられた宿命に機械のごとく立ち向かうことも出来ただろう。
立ち向かったところで何の意味があるのかもわからないけどね。
賢者は戦いよりも死を選ぶ。 更なる賢者は生まれぬことを選ぶ。
ああ、愚か者たちの世界へ来てしまった。
確かに生まれてきたからには死ぬのは怖いけどね。
生まれないで済むならアレコレ考えても仕方ないことを考えることも無かった。
でも重ねて言うけどそんな生き方に僕は絶望してるわけじゃない。
僕が特別つらいとかいうわけじゃなく、生きるっていうのはそういうものなんだっていうことを悟ってるだけだ。
これがつらい、アレがつらい、と感じて「こうならいいのに」と考えたりもするけど、そうならないこともわかってる。
だからそれにしたがって生きるだけだ。
そう、この世の真実を悟っているだけ。
楽観でも悲観でもなく。
だけどこーいう境地に達しちゃうと、ある意味、ネガティブな発想で物事を考えたりするっていうのもアレも実は結構大事なことだったんだな、とか思う。
何か強い願望があったり自分の意思っていうものがあってこそ、初めて何かを否定するエネルギーになる。
例えそれが間違っていたといても、それこそ人間らしい愚かさというものだ。
とりあえず思いついたことをダラダラと書いてみたけど特に主張とか無いですよ。
起承転結の「結」がどこにあるのかとか探さなくていいです。
行間を読む必要も無い。
ここに書いただけの意味でしかないし、僕自身、何を言いたかったのか忘れました。
僕、動物好きです。
哺乳類は飼ったこと無いです。でも子供の頃、金魚とかドジョウとかカブトムシを飼ったりしたんですが、僕に飼われたものは決まって早死にしました。
小動物は元々が短命だけど聞きしに勝る早死にっぷりで、どう考えても僕の飼い方が間違ってるということを僕は幼心に痛感し、「自分はこの先、金輪際生き物を飼わない」と誓ったのはわずか小学校低学年かせいぜい4年生ぐらいの時かな。
その誓いは堅く・・・というわけではないだろうけど、おそらく軽いトラウマみたいなもので実際それ以来、僕はいかなる小動物も飼育していません。
生き物を飼うことに嫌気がさしたわけでも面倒くさくなったわけでもないです。生き物が好きだからこそ、自分の不手際のせいで言葉で訴えられない者たちの命が尽きていくことに耐えられなかったんだと思う。
なんかもうこのへんですでに他の人との差が出てるな。死んじゃったらどうして死んだのかを調べて勉強して次に活かすのがしかるべき姿なのかもしれないけど、そして今ならそれが出来るかもしれないけど幼かった僕はわけもわからず命が消え行くさまに恐怖心みたいなものを抱いたんだと思う。
ましてや僕は幼い頃から弟の短命のことも聞かされていたので、子供らしからぬと言えばそうかもしれないけど同年代のほかの子よりも命ってものに対して少し敏感だった。
そりゃ、小学生ぐらいなら今ほど命がどうのって具体的に深く考えてたわけじゃないだろうけど、漠然としたそういう感覚がどこかにあったことはまず間違いないと思う。
友達がトンボの羽をむしって遊んでるのを見て、その夜はわけもわからないけどとにかく頭がカッカして血管が脈打って眠れなかったこともあったんだ。
命って多分僕等が考える以上に重い。
こんなこと言ってる僕でさえも、その本当の重さにはたどり着けていないんだろうな。
<高3男子自殺>テストの答案返却後、校舎から飛び降り教師もこの生徒に特にきついことは言ってないらしい。この生徒の成績が上位であったことからも、学校側の言い逃れとかじゃなく多分それはホントだろうね。
ただ、今回のテストの成績というものがその生徒にとって相当の比重を占めていたんだろうな。
僕はここで命の大切さなんかを説くつもりはないです。
人生には本当に抜き差しなら無い状態というものが存在して、本当にその状態に追いやられた時どんな奇麗言も無力化し、死しか残されないという状況も存在しうる。
その計り知れない状況を把握しきれず
「そんなことはない、生きてさえいればきっといいことが・・」だとか
平気で言えてしまう人間こそ、その本当の窮地に遠く及ばない所でもちょっとしたことでまっさきに死を選びそうだと僕は思ってます。
さっき、僕は命の大切さを説くつもりはないと言いましたけど、確かに命っていうのは重いが、前述した抜き差しならない絶望の前にはいかなる理屈も無力で、その状況に至っては死を選ぶことも致し方ないという考え方です。
自殺はいけないことかというとそれは絶対的な真実ではなく
人間が、今ここに存在する世界の秩序と平和を守るために論じたものに過ぎない。
だから強いて言えば自殺はいけないっていうのは残念ながらその人の命の比重がどうのというより残された人間のための理屈というような気がしてならないわけ。
ただ誤解して欲しくないのは自殺を推奨したり示唆したりする目的でコレを書いてるんじゃないってこと。
ただ、頭から「自殺はいけない」と有無をいわさず否定するんじゃなく、極限の状態に至っては例外がある(死を選ばざるを得ない状況がある)ということを認めた上で、
「しかしキミは本当にその域に達しているかい?」
という疑問を投げかけたいわけ。
ただその本当の窮地というものを誰のどの尺度で決定付けるかが問題になってくるだろうけど、少なくともテストの点が悪いだとか仕事を無くすとか、人間が社会的に作り上げたシステム上での絶望感というのは
どんなに大きな物でも自ら死に至らしめるほどのレベルじゃないと僕は思ってます。
当事者にとってはそれが全てでそれぞれの価値観があるから故人には申し訳ないけどその程度で死を選ぶというのは人生をなめてると言わざるを得ない。
なぜなら社会的なものを超越した決定的な絶望というものも存在し、それでも生きてる人間が多くいるからです。それを超越した絶望感とはどういうものかを説明すると長くなるので別の機会にしますが。
「じゃあお前の体験を今ここで話せ」と言われても今すぐ明かすことは出来ませんが、正直僕も生き地獄を味わって来たクチです。
2週間。
死を決意しそうになったら2週間生きてみるといい。
その2週間の間に生きる喜びを発見できるなんて無責任なことは言わないが、少なくとも自分が今ここで死ぬわけにはいかない理由を見つけることぐらいは出来るはずです。
その時、自分は相変わらず死にたい気分でも、イヤでも生きなきゃいけなくなる。そこから突破口が見えるかもしれないし、見えなかったらそのあとに死んでも遅くはあるまい。
自殺を踏みとどまった人間はヘタレとか意気地なしとか言うのもいますが、そんなことで度胸つけてどーすんだって話。ヘタレ上等。死んだらキミの無念は金輪際他者に伝わることも無いことを覚えておくといい。
先日亡くなった弟は僕なんかよりも何倍も物知りで、極端な話、人生経験上僕の方が上であっても、世の中の知識に置いては僕なんか足元にも及ばなかったです。
政治、歴史、心理学などの学問を初め、世の中の動きや、テレビや芸能人などの娯楽文化や流行においても色んなことを知っていて、「何でそんなこと知ってんの!?」と家族はいつも驚かされてたんですよ。
最近「ああ、これは弟に聞けばわかることなのにな」って思うことが多くて、知識の宝庫を失った感じです。
そこで思ったんだけど、やっぱり人が亡くなって失われるものってその人の知識もそうだけど、他にも経験や考えたことなど、脳に詰め込まれたものが全部失われるんだよね。
もちろんその人自身がいなくなることも悲しかったり惜しかったりするけど、いくらその人の存在を残された人たちによって語られていくとしても、やはりその人だけが経験して得たこと、思ったことや感じたこと、自分以外の人間に伝えきれずにいたこととかは完全にゼロになってしまう。
ここは私情は抜きにして、そういうのって単純に「もったいないな」って思う。
人間ぐらい複雑な精神構造をした生き物なら、具体的に言語化した情報だとかそういうもの以外にも、抽象的なもの(例えば感じたことそのものだとか、概念や感情や記憶など)も他者に伝達する手段を持っていてもいいのにな、とか思う。
せめて他者でなくとも、子孫を繁栄させていく仮定で、そーいう記憶のたぐいを直接子孫に伝えていく能力が人間に備わってればいいのに、とか思うんだけど、もしそうなったらどうなるだろうか。
人が得た経験や感情、知識などがもし、能力によって子孫に伝えていくことができたら。
とか考えてみたんだけど、年端もいかない子供がいきなり愛と恋の違いだとか議論しはじめたり、サインコサインだのが屁でもなくて二次関数なんて僕たちで言うところの足し算引き算なみにこなしちゃったりして、論文書いて学会に発表しちゃったりすんのかな。
・・・・かわいくねーな。
放って置いても自分で育っちゃうからそのうち子供を育てる感情とかが人間から失われていきそうだな。
・・・・・・・。
やっぱダメだな。
生まれたらゼロから学び出して、死んだらゼロになることにも意味があるんだなやっぱ。
僕は身内の死は弟が初めてでした。
両親や祖母も健在。祖父は他界してますが、僕の生まれる前でした。ということもあってか最初は正直実感が湧かなくて。
年中弟の介護に明け暮れていた生活がピタリと止まる。
その意味がわからない。
弟がいないっていう意味がわからん。
俺は生きてんのに。親でさえ生きてんのになんで弟が先に逝くの。
目の前にあるリンゴを無いと言われても納得がいかないように、僕のこれまでの人生のほとんどを一緒にすごしてきた弟がいないとか言われても「何言ってんの」としか言いようがなかったです。
だけど弟が負っていた病気のことは幼い頃から知らされていたし、僕はつねに覚悟と共に生きてきました。
だから弟が他界しても想像してたほど取り乱さなかったのは、その日ごろの覚悟のおかげだったのか。幼い頃から死というものについて直視しながら成長してきたことから、人並みならぬ感覚が身についてしまったのか、とか、色々考えました。
もちろんそういうのも含まれるだろうけど、でもやっぱり、ドタバタしたあとで夜寝る時、やっぱり涙がこらえきれなくて、自分が落ち着いてるのか、耐え難い悲痛を感じているのか、なんだかよくわからなくなったりするんですが、あれから一週間が経過し、やっぱりどこか落ち着いてる僕がいたりするんだけれど、なんだかまずいのはどうやらそれ以降になりそうな気がする。
今までは葬儀やら何やらでドタバタしたり、親戚の人が出入りしたりすることで、実感として受け止める暇が無かったんだよな。
こういう葬儀でドタバタしたりっていうのはおそらく人間の知恵なんだろう。死者の魂を葬るというより、残された人間悲しみを感じさせる暇を与えないことで少しでも気持ちを穏やかにしたりするんだろうな。
ようやく落ち着いてきてさ。
この頃からなんか・・・。
はぁ。
二階にいて、リビングから呼ばれたりすると、
「弟の移動かな?ベッドに移るのかな?トイレに行くのかな?」
という思考が自動的に働いてしまう(弟が負っている障害は他者の介護を必要とするので、普段から僕がよく呼ばれることが多く、習慣になっていた)。
バイトから帰ってくると、リビングにいるはずの弟がいなかったり、芸能人の顔と名前が一致しなくて、「弟に聞けばわかるかな」と思ったときに弟がいなかったり。
そういう、生活の中で一つ一つ、「もういない」っていうことを実感していくことで、徐々に人は受け入れて行くというパターンもあるのかもしれない。
弟の大好きだった食べ物が店に並んでてさ。
通夜の前日以上に涙が止まらなかったんだよ。
余命2ヶ月。死ぬまでにしたい3つのこと。あなたは何をしますか?
僕の場合はどうせ死ぬなら自分が楽しむことをしても意味ないと思うんですよ。だって死ぬんだし。
もし何かをするとしたら、「今、自分が死んでしまったらこの先永遠にそのままになってしまうであろうこと」を、そうじゃない状態にしたい。
別に綺麗にまとめるわけじゃないけど、例えば自分が昔、つい心無い言葉で友人なり誰なりを傷つけてしまったということは誰にでもあると思いますが、言われた本人はもう気にしていなくても、あのときのことを俺はまだ覚えていて、本当に申し訳なかったと思っている、ということをまず伝えたい。
伝えるべきことを伝えられずに去らざるを得ないということが僕の中では一番無念だ。
でも生ある限りでは、「そんな若かりしころのことを今更持ち出すのも気まずいしなあ」というような甘えがあって結局言い出せなかったりしてるのがそもそもダメ人間だと思うわけですが。
明日俺が事故に遭って死んだらもう二度と言えないのに。
言おうと思えばいつでも言えるはずで、こんなことは死ぬ前にする3のことに入れるほどのことじゃなくて「じゃあ今言えば?」というような話なのかもしれないけど、多分余命2ヶ月とわかったら最初にするだろうな、と思うことがまずこれだ。
で、人に謝る、という、一見綺麗な話をしてしまいましたが、さっきも言った様に綺麗な話をしたかったわけじゃないです。「伝えるべきことを伝えられずに去らざるを得ないということが僕の中では一番無念だ」というのは、自分の中の醜い部分にも同じことが言える。
死ぬとしたら、死ぬ前にどうしても「お前の心無い行為で俺はこんなにも大変な思いをしたんだぞ」ということを言ってやりたい人がいる。これも「伝えたいことを伝えずに去らざるを得ない無念さ」に耐えかねるが故だと思う。
今のところ、この二つぐらいしか思いつかない。
死ぬ前にどこに行きたいとか、何を見たいとか、そういうことは、死を目前にしては全てが無意味に思えるから。
これもちょっと前(7月24日)に書いてアップしわすれた雑記なんですが。去年の自殺者は(この雑記を書いた時点では)3万4427人で過去最悪だってさ。
去年は俺にとっても、シャレ抜きでシャレにならない年(゚Д゚)?だったので、一歩間違えれば自殺者数は3万4428人になっていたかもしれないと考えると恐ろしいです。
あ、いや、別に自分の死をほのめかしてるわけじゃないですよ。
ただ、人生において死への意識というものは誰の中にも存在して、そういうことを考えるということ自体はおかしなことじゃないでしょう。
第一今の俺にはやらなくちゃいけないことがあるので、今死ぬわけにはいきません。もし事件に巻き込まれて刺されそうになっても「殺すのはもーちょい待って!刺すこと自体はいいけどせめて今やってること終わってからにしてクレー!その時にまた刺しにキテ!」とか言いますよきっと。
以前某番組で「死ぬことはいいことか悪いことか」っていう話が持ち上がってたことがあったんですが、どうなんでしょうね。
先にも似たようなことを書いたけど、誰でも自らの死を意識したり想像したりすることぐらいはあると思うんですよね。
・・・って。あ。そういや「考えたこともない」って言う人がいたなそういえば(´Д`;)。
まあ・・・その人はダントツに強くてエライか、ダントツに鈍くて馬鹿かのどっちかだと思うのですが、少なくとも俺は何度かありますよ。
まー普段から頭の中で考えるネタだけは尽きない人だから、っていうのもあるかもしれませんが、死を望んだこともありました。
でもそういう時に絶望のふちから救ってくれたのは家族や隣人、友人や恋人など、自分が死んだら悲しむであろう人々の存在でした。
もし家族だとか、自分を慕ってくれる人間がいなかったらどうなってたかわかりません。
いや、もしかしたら単に死ぬのが怖いというのを認めたくなくて適当な言い訳をこじつけただけかもしれませんけどね。でもそうではないと自分では思います。
で、死を選んでしまったとき、そういう周りの人たちに計り知れない絶望と悲しみを与えてしまうということは、何よりも罪深い=悪と言えるかもしれません。
と同時に、そうだとしたら人は誰かのために生きつづけなくてはいけないものなのか、という疑問も湧いてきます。
ま、この際、「生きたくても生きられない人がいるから命は大事にしなくちゃいけない」とかいう綺麗なお話は抜きとして、命を絶つということそのものが「悪い」と断言できる根拠はなんでしょうね(←いや、殺人は別ですよ。あくまで自殺に限った話です)。
うーむ、特に見当たらないんですよね、実は。
いや、だから「自殺は自由だ」とか言いたいわけじゃないです。
頭では漠然と「死ぬのはダメだろ」という意識があるが根拠が見出せないので、それをはっきりさせたいだけなんですよね。どうなんでしょう。
さて本題。
言いたい事の理論はある程度わかるけど、
どうしても納得できないところがありまして。
それは、ほんの少しの水も怖いのになんでワザワザ水で満たされた洗面器を手に持って
「水が怖い」と叫ぶのかという事。
水難事故の酷さや恐ろしさを忘れないという事は、
常に水から恐怖を与えられ続けなければならないという事と同義ではなくない?